DAIHACHI

ジャンル問わず書いています。インプットばかりはもう辞めだ

「劇場に笑いが絶えなかった映画」『ジョーカー』を因数分解しよう!

公開からもう一ヶ月程たったようです。ええ、しっかり2回程鑑賞させて頂きました。
色々な人から話を聞くし、僕も未鑑賞の人には「はやく観に行け、今すぐに!もうネタバレするぞ!!」とせかしまくってます。

なので…そろそろ…ネタバレ開始だなと。

因みにですがジョーカーの考察や記事は一切見ていません。1968年のアメリカの状況を調べていく中で独自に関係あると思われた、ジムクロウ法などについては調べたけどね!

 

こんなブログを書いているのだから当たり前であるのだが、『ジョーカー』は傑作だった。映画を見終わった時には「ブワー!」とアドレナリンとドーパミンが出て、頭の中にいくつも整理したい事が出てきた。それを少しづつ書いていこうと思う。

 

  1. アーサーがジョーカーになった3つの要因
  2. 踊り・貧乏ゆすり・自傷的行為
  3. アーサー王伝説
  4. 政教分離原則
  5. リップス感情移入美学
  6. 模倣犯
  7. 映像的表現とメタ的理解

7本立てになる予定でございます。では早速1つ目から記事にしていきます。

 

1.アーサーがジョーカーになった3つの要因

頭の中に様々な仮説や考える事が出てきたとしたが、作品を整理し理解しなければ決して発展できない。まずは基礎を固める事が重要なはずだ。
この作品はどういった作品なのかというと、「アーサーがジョーカーになるまで」といえるだろう。作中では様々な出来事が同時進行し物語の中で複雑に絡み合い一つの作品を構築している。
そこで私はその複雑に絡み合った出来事を因数分解してひとつずつ整理した。これをまとめたものが、このブログになる。実は因数分解できないんですけどね

整理し因数分解をすると、1つ1つは単純なので理解しやすくなる。つまり、これはよく分からなかった人向けでもあります。

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では早速3つの要因をまとめてみました。

とても長い文章になるので、先に結論を述べておこうと思う。


アーサーは上記した3つの事で悩ましい日々を過ごしていた。しかし、もちろんの事ながら状況は好転する可能性があり、彼の希望だっただろう。そして、彼は映画の中でこの3つ事柄に対して全て受動的であり、いつか誰かが…と考えていた。アーサーはただ単純に承認して欲しかったのだ、ただ現実はその全てから拒絶される事となった。

そして徐々に彼は能動的に行動していく、その結果全てが自分にとって都合が良い方向へ歯車が噛み合ったように動き出し、結果は大衆から承認され大衆に影響を与えたのだ。

そして彼は、自分の感情や思いに素直に行動すると、悲劇の人生から喜劇のような素晴らしい人生に変わっていくのだと思うようになった。(思ってしまった)

彼は感じたのだろう、いや悟ったと言うべきだろうか、「世間が狂っているのか。自分が狂っているのか…」その答えはどちらでもなく、何一つ狂っている事などないのだ。一歩踏み出し自分に素直に生きれば素晴らしい世界が待っているのだ。」(こう考えたのではないかと推察している)

そして、その事を決定づける出来事として警察から逃れたし、捕まっても助かるのだ。その結果彼はゴッサムシティのアイコン「ジョーカー」になるのだ。

 

では私が考える

アーサーはただ単純に承認して欲しかったのだ、ただ現実はその全てから拒絶される事となった。

自分の感情や思いに素直に行動すると、悲劇の人生から喜劇のような素晴らしい人生に変わっていくのだと思うようになった。(思ってしまった)

このことについて、3つに分けて進めていこう。 

 1.アーサーの夢、スタンダップコメディアン

映画が始まってすぐ、カウンセラーとの会話の中でコメディアンになりたいとアーサーは語っている。しかしその話はこれでもかと言わんばかりの寒さで、彼がコメディアンになるのはほぼ絶望的だとスクリーンの向こう側の皆様も思っただろう。

ソフィとのシーンでは、ソフィに想いを寄せて自分を受け入れてくれるだろうと思い、自分の夢の一歩ナイトクラブでの自分のショーを観てくれと話す。そのショーはとても酷い物で目も当てられない。別の記事で書くが、彼は極度のストレスや緊張を感じる時に「笑う」と推察する。舞台に登場してから笑いたくないのに笑ってしまう。しかし徐々に観客の目を惹き笑いを誘っていた(恐らく彼の妄想だろうが…)

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終盤にはマレー・フランクリ・ショーにコメディアンとして出演する。

経緯として母が入院し寄り添い精神状態は最悪だった時にアーサーはマレー・フランクリ・ショーの中で紹介された。マレーはアーサーをコメディアンとしてのレベルの低さを嘲笑い冷笑し皮肉を込めて紹介するのだ。しかし彼はそれでも出演する事が夢だった舞台で、恋い焦がれる番組に紹介されたのだから、心の底からソフィと喜びを分かち合っていた(これも妄想なのだが)


その後、紆余曲折があり再度精神状態が最悪な時に電話が鳴る。留守電でマレー・フランクリン・ショーのスタッフだと聞き飛びつく辺りは、まだコメディアンととマレー・フランクリ・ショーへの執着が見られる。そして、電話に飛びつき「出演しないか?」と言われ二つ返事で出演する事になる。

しかし、ショーに出演した時のアーサーは違う何かだった…

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彼は楽屋の鏡に口紅を使い「PUT ON A HAPPY FACE」と書いている。「ハッピー」は母からの愛称であり「あなたの笑顔はみんなを幸せにする」と由来がある。しかし、この時アーサーは母を殺している。このハッピーという言葉からの決別でもあっただろう。
人々に笑われるジョークを言うコメディアンではなく、誰しもが意図せず自然に笑みがこぼれる笑いたくなるようになればいいという考えになっていたのではないだろうか。

アーサーは自身の中にある欲求に素直に従った結果は全て大衆から承認され社会現象にもなったのだ」この事を作中の出来事の中で確信していた。
そしてこの事は「今までの人生は悲劇であり決して誰からも理解されない・承認されない悲しみを感じていた」こんな彼にとって、このうえない幸せで自然に笑みがこぼれていた。

「あぁ…そうか…欲望に忠実であればあるほど人々に承認されすべての人が心の底から笑えるようになるのか…これこそが…私そのものが…コメディアンだ…みんなもこうやって行こうぜ!人生は喜劇だぜ!笑おう!」と考えたのではないだろうか。

 

 2.精神的・脳の障害への理解。社会的弱者。

最初に映画の中でのゴッサムシティの年代を推察することからはじめよう。

少し話が逸れるが、街の腐敗を知らせるものとして街の至る所でグラフィティーが書かれている。グラフィティーが街や地下鉄に書かれ様々なスタイルが生まれたいた最盛期は1980年頃だ。その後グラフィティは街を浄化する流れの中で少しづつ追いやられて行く。ラジオから流れるゴミ清掃のストライキによりゴッサムシティは経済も政治も決して良い状況ではなかっただろう。調べていくと実際に1968年にNYであった出来事だと分かった。この事から、撮影場所からも恐らく1968年と1980年代を両方混ぜたNYをゴッサムシティとしていると考える。

また、この1968年という年の大きな出来事として、アフリカ系アメリカ人公民権運動が起こっている。マーティン・ルーサー・キング・ジュニアが有名であろう「私には夢がある」という言葉と共に、黒人差別の社会を変えようとしていた。アーサーにも「コメディアンになる」という夢があった事と重ねられる。
トーマスウェインや社会的地位の高い人々が集まりチャップリンの「MODERN TIMES」を鑑賞する施設の前に集まったピエロの抗議運動もまた、「ワシントン大行進」と…関係しているのかもしれない。

アーサーの職業はピエロに扮しお店のセールの客寄せ等だ。同僚は護身用として黙って護身用に銃を渡す人(自己防衛が必要な状況)や黒人が居る。この事から未だ差別が続く社会の中に取り残された白人と言えるのではないだろうか。

ここまでで言いたい事は、つまるところ如何に彼が社会的弱者であるかという説明だ。

-----閑話休題-----

話を戻して最序盤を思い出して欲しい。アーサーはカウンセラーとの会話で、彼が精神的な問題がある事が分かり、更には過去に入院していた事も分かる。「世間が狂っているのか。俺が狂っているのか」という言葉を放つほど、彼は一般的な人達と自分の置かれている状況や状態が芳しくないことを知っている。つまり一般的な人になりたいのだという欲求があるのだろう。故に彼は薬を増やしてくれとカウンセラーに願う。

「私には夢がある。コメディアンになる事だ」と語るも、カウンセラーに対してアーサーからの一歩通行の会話であり、物語の中では一般的なコメディアンとしての成功はなかったし、結果的に叶わなかった。

次のシーンでは前の座席に座った黒人の子供を笑わせようとするも、子供の母からの拒絶をされる。その後彼は苦しそうに、止めたいのだが堪えられない、カウンセラーの時にもあった笑いをする。そして脳に障害があり、笑ってしまうのだと分かる。

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そのあとはカウンセラーから薬を貰える場所の閉鎖を言い渡される。結果とし断薬せざる負えなくなり、彼は少しづつ不安定になって行く。

マレー・フランクリン・ショーにでた妄想があるように、彼の想像力・妄想は非常に長けている事が分かる。ソフィとの関係は3.女性との関係で詳しく書くのだが、彼女との出会いであったエレベーター以降のシーンは全て彼の妄想であったという事が作中終盤で分かる。そして彼は、トーマスウェインと母との関係性を知り、母が精神障害であることを知り、更に母の言動は全て妄想であった事を知り、絶望に打ちひしがれる。

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しまいにはショーに出る時の予行練習を行っているが、鑑賞する私たちがアーサーが妄想している事が分かる。今までのようにアーサーの妄想やイメージを主観時な映像ではなく、カメラを引いて不気味とも言えるショーの練習を見せられる。本当のアーサーの姿を見た私たちは「アーサーは何かが狂っていたのか…これはこいつの妄想だったのか」と認識するのだ。

アーサーは精神的な病と、脳の障害。この2つが大きく影響する彼の生活水準の低さと社会的弱者という人間だ。

この事からアーサーは一般人になりたい・政治や自身を取り巻く環境からの支援や理解を求めていた。ついには叶わずこれも誰からも理解されず、誰からも承認されなかった。更には妄想ばかりで現実との区別がついていなかったのだ。

 

3.女性との関係

「ジョーカー」には母・ソフィという2人の女性との関係性が重要な要素としてストーリーに絡んでくる。ではまず、母との関係性から進めていこう。

これまた、アーサーが想像しマレー・フランクリン・ショーでの観客席での出来事だ。アーサーは「私は母を支え、素晴らしい息子ではないだろうか」とTVの収録でマレーに言う。そしてマレーはアーサーを素晴らしいとし、舞台へと呼び込み「君が居るならば他のモノは何も要らない」と発言するのだ。このような妄想を自己承認欲求という他何もないだろう。(記憶が曖昧で申し訳無い)

この事は、どんなに貧しかろうが母を支え必死に生きる親孝行の息子という事を社会的に素晴らしい事なのではなかろうか?とアーサー自身が考えているという事でもある。そしてその妄想が終わると彼は母と手を取り、楽しそうに踊るのだ。

ストーリーの中で、アーサーの母は何通もの手紙をトーマス・ウェイン氏に送り続けている事が分かる。母は若い頃ウェイン氏の屋敷に仕えていたようであり、今の経済的に苦しい生活を援助して欲しいと懇願している事が分かる。

しかし、アーサーが母が送る手紙の内容を見た時に、衝撃的な内容が判明する。母とウェイン氏の間に生まれた子供が自分であるという事だ。父が家庭に居なかった事は死別したという事ではなかったのだ。更にはウェイン氏の経歴に所謂傷がつくという事で、公にはしないよう契約をし、母との関係性はなかった事にされている事もわかってくる。

アーサーは直接屋敷に訪れ、ブルース・ウェインつまりは義理の弟かもしれない子供に出会う。恐らくアルフレッド(恐らくだが、原作に登場する執事)に敷地から離れるように言われ、彼は理不尽な心境だったろう、その事から怒り柵の向こうからアルフレッドを首を締めるのだ。結果として柵の向こう側へは行けず断念する。決して超える事が出来ない、社会的な立場・貧富の差を柵で区切りビジュアル的に説明してたようにも思える。

アーサーは母とウェイン氏との関係が真実かどうかを知るには本人に問うしかないと考え直接会いに行く。ウェイン氏は「結果は嘘であり母の勝手な妄想である」と言い放ち拒絶する。父であるかもしれない男性から、自らの環境を救ってくるかもしれない人からの拒絶であった。
このような事があってもアーサーは母の言葉が真実だと信じ、公的な機関の中立な証明を得るために病院で母の診断書を手に入れる。結果は最悪だった、母の言う事は恐らく虚言であり更には過去に自分が虐待されていた事実もあったのだ。母への愛ゆえの選択と生活だったのに、その全てを覆すことになったのだ。ウェイン氏の揉み消しによるモノだったとも考えられるが、これは可能性として排除している。あくまでウェイン氏がとった行動よりも、アーサーがとった行動とその結果が物語での唯一の真実だと考えるからだ。

その後、母が倒れ入院する事になったが、アーサーにとってもう母は守る価値のない人と考えたのだろう。 その後アーサーは母に手を掛け殺害してしまう。

貧しいながらも母を支え素晴らしい息子として生きており、いつかその苦労が誰かに認められ救われると思っていたが現実は違った。すべて母の妄想と支配だった

次にソフィについて書いていこう。

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同じアパートに住む、ソフィとその娘と偶然にもエレベーターで居合わせほんの少しだけ話す。その出来事からアーサーは彼女に興味を持ち、彼女の素性を知るためにストーカーする。動機は非常に純粋な感情であるが、現実ではあまり気持ちの良い行為ではない。結果はソフィに付け回していた事を気付かれ「付け回していたでしょ?」と問い詰められる。素直にアーサーは「YES」。あまり気持ちの良い行為ではないので、普通なら通報されてもおかしくはないのだが…ソフィは「仕方ないなぁ…素直に言われたら許すしかないじゃない…」と言う対応を取る。

そしてその話の流れで、アーサーは自身の夢の第一歩であるスタンダップ・コメディアンの講演を見に来て欲しいと頼み、ソフィは駆けつけてくれ結果も大成功に終わる。電車内で発砲し3人を衝動的に殺してしまった後には昂った感情を彼女に向けている。

アーサーが射殺した事件の記事を街中で見たときも、ソフィはその行為を承認するばかりか賛同すらしたのだ。母が倒れた際にはソフィは寄り添ってくれ、アーサーは母以外に心の底から信頼し想いを寄せている存在だった。

マレーやウェイン氏のような手の届かない場所にいる人達ではなく、同じアパートに住む愛する人という身近な存在からの承認だった。しかし、自身が創り出した妄想だったのだ。

母の言う事は全て妄想であった。ソフィの事は全て自分の妄想であった。これはウェイン氏のいう「母は妄想ばかりする奇人である」という事を無意識に自分もしてしまっている事である。

母とソフィという2人の女性との関係も、物語の中で全て悪い方向へと向かう。更には全て母と自分の妄想であり、TVの中や富裕層の政治家でもない手の届く身の回りの人からも嘘をつかれ、承認されず、拒絶され、妄想だったのだ。

 4.まとめ

このように3つの要因から全て承認してもらえなかった、誰にも見てもらえなかったからジョーカー になってしまった。という事は、何か一つでも…依存でもいい…心の拠り所や承認される事があれば、ジョーカーにはならなかったという事だろう。

そしてこの3つは政治的・貧富の差、治安などという政治経済状況やなどが関係しており、そこにいるアーサーの物語だ。つまり、ゴッサムシティという場所が非常に影響しており、もしかするとすべての原因とも言えるのではないだろうか。

ゴッサムシティが生み出した人間、それがジョーカーだ。

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私は今作のジョーカーを暴走列車だと思っている。というのも停車駅や経由地を指定しても決してその願いは叶うことがない、全ては列車の気分次第。何故ならば自分の思いつきでしか動かない列車であり、その考えは本人ですらわかる筈もないのだから。

過去の作品の中では、並走する「バットマン」という列車があったのだ。バットマンがいるからこそ、ジョーカーの終着点や経路が変わっていたのだ。だが今回は違うバットマンはいないのだ。 

バットマンありきのジョーカーではなく、ゴッサムシティありきのジョーカー。これがバットマンシリーズへのリテラシーが必要ないミソであり、素晴らしい作品になったのだと考える。

 

3つの要因は物語の中で複雑に絡み合い、お互いに影響しあってしまった。しかし、それを綺麗に紡いだ結果が映画『ジョーカー』であり、素晴らしい作品になったのではないだろうか。

長々とここまで書いたが、少しでも「あ〜確かに〜そういう事か〜」となれば幸いである。

では次の 踊り・貧乏ゆすり・ヘッドバンキング の考察で!